議会は劇場ではない


                          市議会議員 佐 藤 壽三郎
 

 市民と議会との懇談会の席上のことであった。市民のある人が「我々(私)の事業が最近どうも思うどうりに行かないし、収入も減じているから、議員も市職員も共同運命体を感じて、報酬を引き下げて当然である」と言う趣旨の発言をされる御仁がいたが、この自由主義社会において通用する話であろうか?

 再三同趣旨の発言するこの人は、何故に個人を単数ではなく複数の人称を用いるのかが訝しかったが、聞けば某市議会議員の後援会長を務めているとのこと。頻繁に用いる『My』ではなく『 Our 』の表現は或は某市議会議員を配下に置いている傲慢さなのかも知れない。この市議がむやみやたらに議員報酬削減を唱える訳が漸く解った。議会制民主主義の制度を如何に守るかの論議がどこにもなく、只々、議員定数削減や報酬カットを叫ぶ理由が後援会長の意向であるとすれば、この議員は柵に引きずられている典型的な例であろう。

 個人の事業がうまくいかないツケを、「運命共同体」の理屈で議員や市職員の報酬に絡める発言は如何なものか?個人が様々な事情に因って生じた債務を議員や市職員が代位弁済せよということかな?支離滅裂な発言としか言いようがない。

 懇談会の意見は様々であって構わないが、個人主義と利己主義を混合した発言や利益誘導型発言は差し控えて欲しいものだ。現代の日本は、言論を表現する自由の保障と同時に、言論の表現方法や内容によっては責任が発言者に課せられることも忘れてはならない。

 議会は住民に代わって行なう地方自治体の意思決定機関である。裁判所と違って「有罪や無罪、或は有効、無効を議する」場ではない。

 然し議会はルールに則った運営がなされなければならない。法による支配がなされなければ、議会は声が大きい意見が罷り通ったり、腕力が強い人の意見が通るを許さないのが議会のルールであって、詰るところ市民益を求め、そして市民の自由を守る牙城ではないのだろうか?

 少なくとも「議会制民主主義とは何ぞや」と言う中学や高校の社会科で習った「制度の基礎」を弁(わきま)えないで、政治のうんちくを論じることは危険が孕みすぎる。議会は住民の自治体の意志を決するところであり、決して興行を打ったり、況やエンタテイメントを演じる劇場ではない。



平成17年7月23日記す。