泉小路界隈を語る

     〈其の三〉   火の見櫓のてっぺんは 風もないのに揺れていた

泉小路 萬良



  敗戦から立ち直ろうと皆必死であった昭和30年代の話である。


  ジャン・ジャン・ジャン、ジャン・ジャン・ジャンと半鐘が鳴る。「すわぁ火事だ。それも近いぞ。」スリバンは近火の徴だ。消防団に入っている泉小路界隈の若い衆は法被を片手に店から飛び出す。穀町の消防団詰め所に馳せ参じるのである。魚屋、餅屋、自転車屋、下駄屋、酒屋、そば屋、炭屋、八百屋、ラジオ屋そして写真館とこの界隈の商店の惣領はみんな消防団員であった。半鐘がなると家業は投げ出しても火消しに駆けつける。今のボランテアの類ではない命がけの出動であった。比較的長閑な泉小路界隈もスリバンと手押しポンプ車が鳴らすサイレンに緊張が走る。「どけどけどけ!あぶねからどけィ!」と火災現場に繰り出す第一分団に町中緊張が走った。



機敏な消火作業と鎮火後の整列、団長の労を労うあいさつや分団長の指示が、ラッパの音色で進み、敬礼をする姿は幼い子供たちにはかっこ良く映り、「大きくなったら消防団に入る!」ことが幼い男子の共通の夢でもあった。年頃の娘たちにも火事場の若い衆は粋に映るのであった。鎮火後、隊列を組んで意気揚揚と詰め所にかえる消防団の姿は、新撰組に似た格好良さがあった。「火事と喧嘩は江戸の華」と言うけれど、須坂においても「火消しは須坂の華」であったと言える。



さらに町場の火事に、交通整理を自ら買って出る食堂の主「いっちゃん」のような命がけでの世話好きの人たちのお陰で、過密な市街地が大火にならず消し止められと思う。彼らと彼らを送り出す女房をはじめ家族の「困ったときはお互い様」の心が、災害を最小限に食い止めたと感ずる。郷土に尽くした一番の功績者である彼らに、僕に若し権限があれば、茲に記(しる)す勇者とその家族に、『市民感謝状』を追贈したい気持ちでいっぱいである。




上町の火の見櫓は僕の家の裏手にあった。三本柱の三層構造になっていて、一層は子供が容易に登れないように、地上から1.8mぐらいのところに登るための「とって」があり、大人の消防団員はこの「とって」に飛びついて、丸柱をよじ登り一層にあがる。一層は地上から2.5m位の高さであった。そこは2間ぐらいの正三角形の広さがすのこ板になっていて、二層へ登るための梯子が着いていたがこの梯子は長かった。二層は三層に登るための踊場であったので、それほどの広さではなかった。三層には半鐘が吊るされていて、木造の火の見櫓としては堂々としているものであり、吊るされている鐘の音色とともに上町の自慢でもあった。



  あるとき、半年違いの従兄弟と最上部に登ってみることとなった。丸太を木登りの要領でよじ登りようやくのことで一層に登れた。つぎに意を決して梯子を一段一段登って二層目指したが梯子の桁が長く小学生の僕らにはきつかった。足を踏み外せばま逆さまであるので下を見ないように懸垂をするようにして二層に辿り着く。二層目から最上段への梯子は殆ど垂直であった。段を上がるごとに景色が変わる。家並みが段々遠くまで見渡せる。高さは12〜3m位あったのであろうか、長野や豊野方面、小河原や高畑そして高井まで見えて善光寺平を一望できた。かんだ山の頂からみる景色がそこにあった。流石に火の見は想像以上に高かった。気がつくと櫓の最上部に立ったが櫓が風がないのに揺れている。地震でもないのに揺れている。天が「がたくが!」と叱り飛ばしているように聞えた。櫓が今にでも倒れそうに見えて、とても「絶景かな!」とは言えない怖さがあった。従兄弟と長居は無用と話が決り降りることとしたが、降りる方が登るより更に怖かった。梯子の桁が長いのと足の裏に目がないために、子どもである私には、下りる足が下の桁に中々届かず降りるに降りられない焦りがあった。しかし、下の桁に着くまで吊る下がる要領を飲み込めたので、それからは怖くなくなった。やっとの思いで一層に辿り着くと、ほっとしたのと懲り懲りで、すのこの上で暫くは動けなかった。



  この日から一層のフロアーは僕の遊び場になった。最上階を極めたからである。僕は独りですのこのうえに大の字になって雲が流れるを追ったり、青空の果ての果てを見ようと目を凝らしては時を過ごすようになった。一層の高さは子供の僕にとって大海原に舟を漕ぎ出したような感覚になれる高さだった。  相撲、かくれんぼ、缶蹴り、ナキ、花一匁、チャンバラ、キャッチボール、冬の雪投げ、そり等すべては、火の見櫓の周りに適当な原っぱがあったこともあり、宿題もしないで暗くなるまで、幼馴染とくたくたになるまで遊んだ。



  惣領の僕は十九歳の折、政治家になる手立てとして法律家になるため上京して、二十歳代をずーと東京の弁護士さんの下で過ごしたために、幼いときから憧れた消防団には入れなかった。上町の木造の火の見櫓も取り壊されて今はない。更に僕をはじめ従兄弟や幼馴染は殆どが上町から出てしまった。消防団で活躍した魚屋の高坊、写真館の洋右さん、ラジオ屋の阪田さん、八百屋の晤朗さんは亡くなられた。今生きていれば、議員になれた僕を歓んでくれるに違いない。そして上部地域ももっと活気があったろうにと思うと何れも惜しい人たちである。しかし大方は今尚健在で夫々の家業の柱となって、泉小路界隈で暖簾を守っている。初老の顔にかっての精悍さは捨てきれないでいる。近郷一の高さを誇った上町の火の見櫓のてっぺんに登って、いざというときにスリバンを叩いた誇りが顔にある。火の見櫓のてっぺんは 風もないのに揺れているを知っている俺らが、この街を守ったんだと言う自負心が、この泉小路界隈を支えていると思えてならない。



 議員は、消防の法被を着て出初式に参列しなければならない。今年も雪原の寒さの中で厳かに式が行われた。凍えに堪えながら見入る眼の先には、八百余名の消防団員の一糸乱れぬ訓練された一挙一動があった。私は幼い日のことをオーバーラップしながら、泉小路界隈で生れ育ち亡くなった消防に関わりのあった人々を思い出していた。そして目を見開いたとき、目の前には日本人が忘れかけている『男の世界』があると感じた。


「気をつけ〜! かし〜ら〜 中!」