人が人であるために


 論語に「人にして信なくんば、其の可なるを知らざるなり。大車?(げい)無く、小車イ(げつ)無くば、其れ何を以って之を行(や)らんや」(論語為政第二22)とあります。

 学生時代と言えは、凡そ45年も前になりますが、私は岩波文庫本の「論語」を買い求め、日々反芻するように読み返しました。その中で、「人而無信・・・」の件を読んだときに「これだ!」と決し、その日から私の人生の信条と決めました・・・

  「信」とは何でしょうか。私は人としての信義・信用/頼みある仲であると感じます。人が最も大切にせねばならない「無形の財」であります。
 この「信」が最近とみに色褪せている世情を憂います。「信」が余りにも軽い。そこに無信状態が生じこれが即ち不信であります。恰も交友関係にあるかのように成り済まし、一方では平気で背信行為を行う。戦国時代の話が今なお生きているのが人の世と申せます。将に能・橋弁慶で弁慶が発する「すわぁ痴者(しれもの)よ・・・」の類と申せます。

 人から「信」を奪ったら、疑心暗鬼が生じ、詰まる所人の世は畜生道に陥ることは必定ではありませんかね。

 青年は少年時代に読んだ「走れメロス」を再読され、信の大切さを肝に据えた人生をおくることが大切であるのでは・・・
人生とは、人として生きることであり、或いは生涯あるいは一生とも各々の人生観により解釈は様々であるが、共通なのは今現時点で生きている確かさで感じるぬくもりでなかろうか・・・

2012/3/24記す。