青春の追憶

医者いらずの異名をもつ中華そば


 電話がダイヤルでなく、ハンドルを回して交換手が出ると相手先の番号を告げる。そんな遠い遠い昔の話である・・・

 小学生のころ風を引いて熱がでると、私は一日中布団に入って眠らされた。肩まで毛布に包まれて、兎に角布団の中で汗をかくことを強要された。汗をかくとその度に下着を取換えてもらって又寝て過ごす。この繰り返しを3回ほど繰り返したのか・・・

 すると不思議に夕方になると、熱も治まり風邪は快方に向かった。風邪をひくと兄弟姉妹何れも同様であった。母の献身的な看病が風邪を治してくれたと言える。

 静かに1日中寝ていた褒美に食べさせてもらったのが、今はラーメンとか中華そばと言うが、当時は「支邦そば」と言われるものであった。麺もさることながら、今思うに栄養価の高い熱いスープが、頗る体に良かったのかも知れない。

 当時は、出前が盛んでどの店も出前をしてくれた。この屋の「支邦そば」も我が家に配達してくれるものであった。住民曰く「医者いらず」は泉小路界隈で育った者には、誰しもが今は亡き父や母につながるものであろう。

 私は、今でも思い出の「中華そば」を口にするためにこの屋を訪ねる。運ばれた「中華そば」の麺を食べる前に必ずスープをニ度三度口に含む。サケが生れた川に戻り故郷の水を感じるに等しい行為かもしれない。口に含みながら徐に舌に滲みわたるを感じると、遠き日々の亡き母が偲ばれる・・・

 この町に育った人々には、その家即ち家族との様々な思い出があろう。この思い出の蓄積が重代の誉れとなる。更にこの集まりが郷土愛となり、須坂を離れるも須坂を忘じがたく感じる「絆」という極めて抽象的で無形なものとなる。この心の絆こそが須坂を支える「須坂人」で表現されるのではなかろうか。先日東京で催された「ふるさと信州須坂のつどい」に出席してこのことを強く感じた。

2014年1月31日記す。