中心市街地活性化について (寄稿)

                 税理士 上地 正巳


 中心市街地とは中心市街地商店街を前提とします。一口に中心市街地商店街と云いますが其の生成や性質を大別すると三つに区分されます。

 第一類は超巨大都市の中心市街地商店街です。民放創世時「東京銀座資生堂」と言うコマーシャルがありました。銀座は東京人ばかりか、日本中、いや世界中を対象とした商店街です。庶民的な浅草界隈、仲見世、新仲見世も日本中を対象としております。

 第二類は中核都市の中心市街地商店街です。例えば長野市権堂町、門前通り十九町の中央通り等です。顧客は地域の人々だけでなく観光客などを対象にしております。小布施町北斎館界隈もこれに当たります。恐らく、地元の顧客は一割にも満たないでしょう。

 第三類は小都市の中心市街地商店街です。日本中何処にでもある○○銀座に代表されるその地域の人々を対象にした商店街です。これらの商店街も大別すると三分類されます。


 まず、第一分類は日本の商店街の殆どは、四日市、六日町、八日町、十日町のように特定の日に市が立ち人々が集まりましたが、やがて、市の日以外の日にも商店が開かれ、やがて宿場町が形成され、今日の商店街となったと考えます。これが○○銀座商店街です。

 第二分類は、明治以来発達した鉄道の開通により生まれた駅前商店街です。この両者は、何れも、三々五々自然に集まり生まれたものです。

 第三分類は、唯一、例外の人為的に計画された商店街です。昭和30年代から生まれた住宅団地、大規模都市開発に伴い計画された商店街です。

 今、須坂市が取り上げている中心市街地は、第三類の第一、第二の分類に属すると考えます。

 極めて、極端な意見を言わして貰えば、これらの市街地の復興は期待出来ません。それは、くどくど前置きを述べましたように、なぜ、市街地商店街が生まれたかに思いを起こして下さい。期待出来ない理由は種々あります。

イ 店側の人々の考え、生活パターンが変わった。

 嘗ては、長男若しくは誰かが跡取りとして稼業を継いだ。しかし、戦後はこの考え方が薄れ、事業承継が困難になった。また、店舗に家族はもとより店員も一緒に生活し、朝七時から夜9時、10時までも開店しておりました。戦後、税金対策から法人化が普及し、旦那は社長になり、家族、使用人は従業員となり、全員が月給取りになり、労働基準法の普及により8時間労働に縛られ営業時間が短縮されました。また、社長の職住分離に因り、一層の拍車が掛かり、夕方6時にシャッターを下ろす店も出ました。


ロ 顧客側の人々の考え、生活パターンが変わった。

 戦前は三世代、四世代の同居が普通でした。戦後は夫婦単位の核家族化が理想とされ、共働きが一般化しました。毎日の食材は毎日、近くの商店街の商店で買いましたが、核家族により、毎日買い物する人がいなくなったこと、昭和30年代、家庭用冷蔵庫の普及により、毎日が二三日に一度に省かれて客足が減り、スーパーマーケットとコンビニエンスストアの出現で、継承者も居ない小売店舗が廃業に追い込まれました。
しかも、閉店舗を、貸店舗として利用することなく、シャッターを降ろして、歯抜けになった商店街が顧客の魅力を低下させました。


ハ 交通機関の発達、好みの多様化

 戦前は須坂、中野の人々で長野に通勤する人々で長野へ買物や遊びにいく人々は、年に何度という位しかなかった事でしよう。今日では、中学生でも毎週、買物や、遊びにいくようになりました。それは好みの多様化により品揃えが出来ないからです。


二 車社会による変化

 昭和30年代後半より40年代にかけて所得倍増と割賦販売の浸透により車が急速に普及し、呼応してショッピングセンター、大型スーパーマーケット、大型量販店や、その複合店が出現しました。
 一度、車社会をした人は50m先のたばこ屋にも車を使います。てくてく歩くことが億劫になり、車が利用できない商店街は、例え、光一の商店が二つ、三つ、あったとしても、顧客は減少せざるを得ません。この傾向は益々拍車が掛かりました。当然のこと駅前商店街も電車通勤者が激減したことにより顧客も激減しました。これに加えて、飲酒運転の取締強化が、勤め帰りに、ちょっと一杯も出来なくなりました。当然、飲み屋街も寂れます。

 一方、工場跡地などに不動産業者が大駐車場に大型店舗を核にして専門店街、飲食店街、パチンコ店、映画館、ゲーム店を集約し、しかも、大型店と専門店とは勿論のこと、それぞれ専門店街も競業する数店舗で競わせております。単に買物だけでなく家族が一日中過ごせる多目的商店群が生まれました。賃貸人は売上高比例家賃もあるので、積極的に経営の助言を行い売上の増加を支援し、一方、賃借人も高額の家賃負担があるため、売上の増加に一段の努力をせざるを得ません。この様に自然発生的では無く、計画された活気のある商店街が各地に誕生しつつあります。


ホ 無店舗販売の普及

 昭和50年代に通信機器の発達、コンピューターの普及により、インターネット販売、通信販売、テレビショッピングによる無店舗販売が大きなウエイトを占めてきたことにより、一層の来店者の減少に拍車をかけました。


 
 以上の様な理由で地元住民の売上げが全てを占める従来の商店街は存在し得なくなりました。これらの原因を解明しないで、個々の商店が努力すれば、昔日の商店街が復活すると期待することは妄想にすぎません。

 これからの商店街は中都市の商店街を目指すことになる。長野の権堂通、岐阜の柳が瀬通、竹中大臣の地元、和歌山のぶらくり町は嘗ては、夜10時、11時まで人通りで賑わっておりました。「ぶらくり」とはぶらぶら歩くことです。現代人の生活から商店街をぶらぶら歩くことが無くなりました。ウインドショッピングは銀座、青山、心斎橋筋のようなブランド品の商店街です。山口県津和野町は森鴎外の生家があり、武家屋敷通りと道添いに鯉が泳ぐ小川が大勢の観光客を集めているようです。北斎美術館もありますが、町外れにあり、知名度も低く、入館者は少ないようです。しかし、小布施を遙か上回る観光客が来ております。その魅力の解明が必要です。

 私が浦和に居たとき、出身はと尋ねられ須坂と答えたら、何処ですかと尋ねられ小布施の隣と説明したら、栗の木三本ね。小布施は毎年行くと云われました。

 俗に善光寺商法と云われる商法ではリピーターは迎えられません。もう一度行きたいと思う街造くりが肝要です。

 約30年前、田中本家前で「なにものや」は何処ですかと25才前後の女性に尋ねられました。何で「なにものや」を知ったか尋ねたら手に持っていた週刊誌で知り、神戸から来たと聞かされ驚きました。何が一杯のラーメンのために神戸から来る魅力があったのか?現代人の心を理解しなければなりません。
 最近の流行語のナンバーワンよりオンリーワン。其処にしか無いものを目指すことが、不可欠と考えます。


 バブル時代に都市再開発事業が盛んに行われました。その殆んどが国等の補助金を受け、行政指導により全国同じパターンにより行なわれました。駅ビル、駅前ビルを建設、百貨店や、大店舗をキー店舗とし、老舗暖簾店舗、地元有力店舗をテナントとして出店させました。建設業者はビル建設により潤い、コンサルタント業者は同じパターンを提供して潤いました。バブルが弾け、客足が減り売上げが減少し閉店に追い込まれたら、原因はバブルにあり、とか、業者の努力が足りなかった、と一言で片づけられました。確かに、木更津駅ビルのそごう店は、月に一回来る役員室が途轍もない豪華だったと聞いております要ですが、本体投資は自前ですることが肝要と考えます。私の乏しい経験から日頃思っていることを取り留めもなく列挙しました。意のある所をご推察いただければ幸いです。

 具体的な構想は亦の機会に譲ります。