泉小路界隈を語る

〈其の四〉  観 音 さ ま

                                            泉小路 萬良

 

































  


                       

  
 
須坂上町に須坂藩の三代藩主肥前守直輝公が眠る壽泉院がある。その境内に北向観音堂もある。あの有名な京都の清水寺のように舞台が空(くう)にはみ出した造りのお堂である。小学生の時などは、お堂の欄干に跨りアラカンの鞍馬天狗になりきって風呂敷の頭巾を被りチャンバラをしたものである。須坂劇場(映劇)で観た時代劇の主人公の真似をして見得を切ったり、台詞を言うことは痛快であり子供ゆえに台詞覚えも早かった。お堂のもつ一種時代がかった風情がチャンバラにうってつけであったからかもしれない。今にしてみれば随分罰当たりなことをしたものであった。あのときの近藤勇役をやった次郎ちゃんは逝ってしまった。



 母は観音さまを信心していた。一日に一回は末の妹を連れて必ずお堂に出向いて親子で深々と頭を下げて手を合わせていた。そんな関係もあってか、僕も観音さまの前を通ると自ずから頭が下がるようになった。

19歳で上京する4月のある朝、旅たちの朝餉を母は用意してくれた。鯛のお頭付にはじまり豆と漬物そして味噌汁と梅漬けであった。将来必ず人様の上にたてれるような人になれるようにと「お頭付き」、まめに生きれるようにと「煮豆」、質素な生活を肝に命じるために「漬物」、母や姉弟妹の絆を忘れないようにと「味噌汁」、災いが最小にすむようにと「梅漬け」であったと記憶する。


前日墓参りをして父や祖母と別れも済んでいたが、仏壇に手を併せ改めてご先祖さまに「留守を護り給え」と願った。家を出ようとするとき、母より「困ったことがあったら、観音さんにおすがりするのだよ。母ちゃんはお前が一人前になるまで、毎日欠かさず観音さまにお前の健康を守ってくださるようにお願しているからな。」と言い渡された。「うん」と頷いたが、志を果たすまでは帰りたいけど須坂には帰れない門出であった。


 25歳のときであったと思う。初夏のある日、午後7時半頃俄かに腹が痛くなった。トイレに駆け込む。然し今まで経験のない腹痛と便意であった。出るものがないのに部屋とトイレの往復は苦痛であった。そのうちに悪寒がしてきた。体温計をはかるとなんと40度近いではないか。押入れから冬物の布団を引っ張りだして掛けるも、寒くて奥歯がガタガタ震える状態となった。洗面器に水を満たしタオルで冷やす。独身生活の誰しもが経験する「わびしさ」であるが、奥歯がさらにガタガタ震え出す。睡魔が襲う。眠ったらお終いだ!寒い!眠い!寒い!ねむ〜い!



そのときである。薄れ逝く意識のなかで、故郷を出るとき母に言われた「困った時には観音さんにおすがりするんだよ。」の言葉を思い出した。そして観音様の名前を呼んだ。何遍も何遍も観音さまにおすがりした。するとどうであろうか脳裡に観音様の姿らしきものが浮かんだ。しかし次の瞬間、観音様の声は母となった。「壽三郎。しっかりしろ!」


翌々日、病院に行ったところ医師より、「よく生きていたな!」と言われ、食中毒であることがわかった。どうりでどうも様子がおかしいと思った。それからも薬を飲んでも下痢が収まるまで1ヶ月もかかり日に日に痩せていったが、命をとり止め今日に至っている。あのときの痩せ方がいけなかったのか、今はデブになった。あの時定食屋のおばさんが、健康を回復するまで毎日「にらかゆ」を作って下さったが、議員になって訪ねたら店はなかった。一生の借りをしてしまったと思っている。


はて、あのときの観音さんは母なのか? 観音さんが母の声を借りたのか?母の子を思う情念が観音さまに乗り移ったのか今もって定かでないが、母の子を思うこころが観音さまを動かし、母のお陰で一命をとりとめたと信じている。観音さんは今でも母と私を繋ぐキーワードである。こまどり姉妹の「観音様の鳩ぽっぽ」や高倉健の「唐獅子牡丹」にも「観音さま」が謡われているが、僕にとって観音さまは母を繋ぐなにものでもない。壽泉院を訪ね境内を歩くと何か母に会えるような気分になれる。幼友達の声も聞こえる。