避けたい論議の空転


 今日はとある集まりで、面識のある人と市政について話す機会を得ました。然し、話を整理してゆくと、どうもこの御仁は私情的に公務員と議員を信用していない。或はこの人は、もしかして、この御仁の親や兄姉が公務員や議員を典型的に忌み嫌っていた家庭に育ったのかと推測されるふしが伺えました。

 「先ずありき」の結論をもって論議することは必要なことではあるが、それ以前に、冷静にデーターや基礎知識をもって、これによってテーマーを論ずることが必要であると思うが、抱く不満や不信が先立って、解明したいテーマの情報収集なり分析もされておらず、徒に感情論を剥きだしに「市政について」の不満を延々と述べられても、これに対しては責任をもった返答はすべきでないと思います。

 世の中は、実践的に耳学問で自分を昇華した人と、分厚い書物を読み重ねてこれを知識とする人がおられます。或は前者と後者をリンクさせることが一番有益と思うのですが、これが中々難しい。

 前者は、実業家に多い。自分の知らない知識を会話の中から貪欲に吸収することに努められる。これらのタイプの人は記憶力も抜群である。
 一方、後者は学研肌であるが、オタクの域に達すると考えが硬直化してしまって、「論語読みの論語知らず」に陥り、却って知識が邪魔をしてしまう。十分な学歴を備えていながら惜しい話である。

 この両方のタイプに属さないニッチの人との論議が一番厄介である。アジテーターとして、議論を否定に導くことに長けているが、さして思慮や知識があっての論議ではなく、只管理由無き抵抗に価値を見出す技法は、実は後に何も残らないのではあるまいかと勘ぐりたくなります。私は暫し論議の空転に閉口してしまいます。

2005/12/04 (日)