新エネルギー施策の抱える課題における一考察
                               
須坂市議会議員 佐 藤 壽三郎

 私が所属する福祉環境常任委員会の本年度の行政視察先は、当を得た行政視察であったと評価しています。何故ならば、地球温暖化対策が叫ばれて久しいですが、ここまで利便を追求した文化社会は中々自制が聞かず、グローバル化した経済構造は最早一国の規制や抑制ではどうしようもない状況にあります。

 地球温暖化の自然現象として、北極海の氷原が小さくなるために白クマの生存が危いとされています。山口県沖では生息する魚類の数が近年多くなりつつあるそうです。それも南洋の海でしか生息できないと思える魚類が捕獲される傾向に、漁民は不安を抱いているとの報道ですし、北海道の釧路沖のサケの漁場では温暖な海で生息する筈のマンボウが多量に捕獲され、サケで生計を立てている漁民にとっては死活問題あるとの報道でした。

 地球温暖化の現象とは裏腹に、グリーンランドや南極の氷河をあげて、地球は氷河期にあるとする説もあります。須坂から北アルプスの峰々が一望できますが、冬は真っ白な山並みも真夏には雪も融けて蒼き山肌となるものが、白馬岳の大雪渓はさて置いても、近年は山岳の沢筋の残雪が真夏でも融けきれない侭、秋には新雪を重ねているようにも感じます。これらの兆候をあれこれ見聞きすると、地球が温暖化なのか氷河期に入っているのか、素人の私は困惑いたします。今年の夏も昨年同様に酷暑・猛暑でありましたが、先日来の雨で信州・須坂は夜具に肌布団なくしては寒くて眠れないほど気温が下がります。この寒暖の差はたった1週間あまりの時間でしかありません。それほどに地球環境は目まぐるしく一変するのです。

 地球温暖化防止策として、クローズアップされたのがCO2の削減策であります。この施策を可能ならしめるために、促進されたのが原子力発電であったと思います。設備に巨額を要し且つ万が一の危険性も孕んでいるが、万が一の事態はあり得ない高度の安全施設が売り物でした。然し、原子力発電所によって十分な電力が賄えるとされた昨年(平成23年)3月11日の東日本大震災の津波によって福島第一原子力発電所の事故は、日本のエネルギーの在り方を根底からひっくり返すものとなりました。原子力発電所の安全神話が崩壊したと申せます。

 海外にその資源を殆んど依存している、化石燃料を燃焼して得るエネルギーから脱却するためには、原発、更に風力、太陽光、地熱、小水力発電そしてバイオマスが注目されましたが、原発に対する放射能問題が一向に解決されない今、国民の6割が原発を拒否する方向にあることを考えると、地球環境に穏やかなで、万が一施設が破壊しても生物に多大な被害を与えない、風力、太陽光、地熱、小水力発電そしてバイオマスの再生可能エネルギーに活力を求めざるをえない時代だと感じます。

 能代市への行政視察でバイオマスを利用した「能代木質バイオマス発電所」を視察しました。
秋田市では、行政視察は長野広域連合が進めるごみ焼却施設と最終処分場の補完として、秋田市総合環境センターにおける、ゴミ焼却施設におけるCO2削減と発電施設と最終処分場を視察しました。
一関市では、いち早く新エネルギーとして風力、太陽光、地熱、小水力発電そしてバイオマスに取り組んでいるとのことであり、その現状とそのビジョンを視察しました。一関市の「一関地球温暖化対策地域協議会」を立ち上げて着実に計画を進められていました。わがまち須坂市にも「須坂市地球温暖化防止推進協議会」がありますが、我々福祉環境常任委員会メンバーは、如何に頭を垂れて学んだことを郷里須坂のために利用しうるかが大きな課題であり使命であると考えています。

 ところで、政府は9月19日の閣議で「原発ゼロ」を決定できなかった。後世の歴史の授業で「政府・民主党の原発ゼロの彷徨」として語られる政治の空白であり暗部です。政府が「原発ゼロ」に踏み切れなかった事情は、国内の経済界の要求もさることながら、日本が原発をやめ核燃料サイクルを停止すれば、核兵器に転用できる大量のプルトニウムを保有することになってしまう事情もあるようですが、アメリカのご都合に振り回される名ばかりの主権国家日本なのであります。

 7月1日に施行された「再生可能エネルギー特別措置法」は、再生可能エネルギーの普及・拡大を目的のために、電力会社は一定の価格・期間で、再生可能エネルギーでつくられた電気の買い取りが義務づけられました。電気を利用する国民に「賦課金」として電気料金の一部として自動的に負担することとなったことを、多くの国民は十分に知りません。然し、仮に今ある原子力発電所が次々に再稼働すれば、国家の或いは地方自治体の巨億の税金をつぎ込んで推進される、風力、太陽光、地熱そしてバイオマスで造られた電気は、電力会社にとっては不用なものにならないのか。国家も余電は電力会社が必ず買い取る保証が法として保てるのであろうか。投下した税金の回収は果して可能なのか等、様々な疑問を抱かせるエネルギー政策ですが、どうか小職の邪推であって欲しいと願うものであります。


平成24年9月21日記す