信越線屋代経由・急行「志賀」で上京す


 長野電鉄屋代線がこの3月31日で廃線される。今でも思うのは「何とか残せないか」の気持ちが募る。電車でなくともディーゼルで列車を牽引し、一日9往復でも構わない。なぜなら、東日本大震災でズタズタにされた八戸〜久慈間が先日復旧したが、確か一日9往復の運行とか。線路が確保されていれば、そのうち鉄道の復活の時期が来るだろうと期待している。

 大学受験のために上京したのも、改めて上京したのも、湯田中発須坂・屋代経由の上野行の急行「志賀」であった。屋代線は松代以外は停まらない程度の速さであったが、須坂の人々は通常、上京する場合に電鉄で長野駅まで出て、国鉄に乗り換えねばならなかったが急行「志賀」はその必要が無かった。屋代駅で長野駅発の急行「信州」を急行「志賀」の3両と接続して、そのまま上野駅まで運行された。上野駅から直通で郷里須坂に帰れる自慢の電車であった。

 盆や暮れはこの列車を利用した。母や妹に土産を詰めた紙袋をぶら下げて帰省したことが思いだされる。あの頃は私は二十歳そこそこ、母も若く妹は未だ十代そこそこであった・・・

 しなの鉄道が、屋代線廃止の記念行事として「軽井沢〜屋代」間に急行志賀を走らせている映像がTVに流れた。169系湘南色(山吹色と深緑)の二色に塗り分けされた電車は当時のままであるが、この電車と二色のカラーは信越線に似合う。意気が消沈したときなどは、上野駅に長野から来る電車を見に行ったこともある。見ていると何かしら力が湧いてきたものであるが、只々懐かしい・・・

 そのこともあって、今日は山吹色と深緑で文章を綴ってみた・・・

 同級生もみんなこの電車で上京したが、上京した友の半数は25歳前後でUターンした。私も遅れてUターンした。還暦の峠を越えた昨今、一人また一人と幼友達が黄泉の世界に召されている。共に青春時代を駆け抜けた友が天に召されることは断腸の思いである。殊更この急行「志賀」の映像をみるにやるせない思いに駆られるのは団塊の世代のノスタルジャと評されてはやりきれない。急行「志賀」と共に過ごした歳月が即ち我々の青春であり、確かな手ごたえを感じている・・・
2012/3/20記す。