青春の追憶

愛犬 権(ゴン)


 邂逅という言葉は対(たい)人に限るものであろうか。否々動物との出会いも世の中にはある・・・
三十にして東京から須坂に居を移した理由は、恰も蚕が糸を吐き繭玉に籠もるには、体が透き通るかのように、我が人生の大志を叶えるためにも、今まで研鑚して法律知識の大成を図るためにも、今この時に終日学習に没頭しようと決したからである。そして郷里の旧家の離れを借入れて、この一室で日々苦闘していた時期があったが、この家には「権(ゴン)」と呼ばれる白い毛並みのよい紀州犬がいた・・・

 犬は子犬の時に出会い一緒に時を過ごさないで、成犬になっている犬に、慣れ慣れ易く頭をなでようならば、唸られるか手を噛まれるのが落ちである。境沢町にも生れて間もない子犬の時から可愛がり、月に一度必ず会う犬がいる。思えばかれこれ7〜8年或いはもっと歳をとった成犬がいるが、子犬の時からの付き合いであるからか、毎月の町内巡回の折に私のバイクの音を遠くから聞きつけて、私の姿が見えないうちから私を呼んで吠える。道順の都合で数分後に対面するが、私を見るなり尾を千切れんばかりに全身で振り、更に私に飛びつく。毛並みを撫でてやると頭を下げ腹を私に見せる。犬のなつきは人間以上に心ひかれるものがある。

 話を権(ゴン)に戻そう・・・
権は成犬でありながら不思議とその日から私になついた。この家の女主人が私をわざわざ権に引き合わせてくれたことや、権が子犬時代にもらわれて来たこの家が塀で囲まれていたこと、しかも奥まった土蔵の扉の脇に犬小屋があったこともあり、限られた人としか接しない環境で育ったことが幸いしたのかもしれない。人間でいえば坊っちゃん育ちなのであった。誰も訪ねて来ない私にとっては恰好の遊び相手となった。

 勉強をしていて飽きると私は権と戯れた。今までに遊び相手がいなかったのであろうか、権は大きな犬であったがいつしか私にとって大事な遊び相手となっていた。前述のとおり犬は相手を受け入れると腹を見せる習性があるが、日々の戯れで権は私になついた・・・

 運動不足を解消するために、権を連れて鎌田山に登ったり、坂田田圃を走り廻った。手綱を放してやると野面をあちこち走り廻り、やがて私が座っている場に戻り挙句の果ては、私にのしかかる甘え様であった・・・

 あるとき気づいたのでるが、私が出掛けて夜半に帰ってくると、権は柘榴の木の下で座っていて私を迎えてくれた。「まさか!」と思ったがその後も私が帰るまでは、夜中の何時になろうが柘榴の木の下で私を待っているのである。私が「権!おやすみ」と言うと小屋に戻るのである。しかもこのことは、権がフィラリアにおかされて亡くなるその夜まで、私の帰りを待っていて、私が帰るを確認し巣に戻る途中絶命したことを思うと、今でも心が痛んでならない。これほど信義を重んじる犬に私は合掌した・・・

 今朝方、なぜか権の夢をみて目が覚めた・・・
元気に私に絡みつく在り日の権のであるが、改めて権に教えられた「至誠に悖るなかりしか」を自問自答した。
将に権から忠義の二字の大切さを教えられたと感じている。人を信じること。愛おしく思うことは人も犬も変わりがない。恩を忘れ、義を失い、忠を欺くに聊かも之を心裡留保と解さず、愧ずべき行為とも思わない人間世界を寧ろ嘆く。


2013/5/20記す。