黒田如水に興味津々




 戦国時代の西国の武将に黒田如水という人がいました。我々には秀吉の軍師「黒田官兵衛」で知れている人です。

 史実は天下人として信長、秀吉、家康ですが、関が原の勝敗如何では、秀吉、官兵衛、家康であったと、残念がる歴史学者もいます。

 事実、秀吉が御伽衆に問い掛けたと伝わる話では、「わしが死んだら、天下を取る者は誰か」の問いに徳川、前田、毛利といった名が、それぞれの口から出たが、秀吉はうなずかず、やがて「黒田官兵衛孝高がとるわい」と言ったそうです・・・・・・・・

 このことを伝え知った官兵衛は、即座に秀吉に隠居を申し出たと言いますが、思うに大変用心深い人であった。天下を穿つ人はこのくらい細心な持ち主でなければ消されるのかも!

 やがて・・・・・・・・
 秀吉が死んで再び天下が乱れると、官兵衛は自ら天下盗りの野望に着手しました。彼は家康の天下盗りには相当の歳月がかかると読んでいました。それ故に所領のある九州全土を一気呵成に攻め、一世一代の大勝負を仕掛けました。

 だが・・・・・・・・・
 頼みの綱である西軍が関ヶ原の戦いで、予想だにしなかった一日での完敗で、中途半端な欲を持つことの愚かさを、知りぬいていた如水にとって、天下盗りの夢は儚くも水泡に帰しました。志しをたためる冷静さが恐い!

 己の身と黒田家の安泰を守るために、分捕った九州の土地を家康に頓着しないで差し出し、更に以後の生涯を黙し「如水」と名乗り、歴史の表舞台から消える。

 歴史学者は、官兵衛はカミソリゆえに天下を取れる力量はあったが、秀吉や家康の警戒心をあおって、遠ざけられ、天下を狙う機会を失ったとみています。

 私は天下を窺う者に、東国に真田昌幸、西国の黒田官兵衛をあげます。真田藩は須坂の隣接地ゆえに、信玄公、謙信公の戦や人なりのあらましは、五百有余年も昔のことも、あれこれと語り継がれており、それを折あるごとに幼いときから聞いて育ったちましたが・・

 黒田官兵衛の江戸時代初期の本拠地は九州福岡、私が生まれ育った信州須坂からはあまりにも遠すぎる。信州人にとっては「不知の人」にほかなりません。信州人は「黒田如水」を知りません。

 黒田如水公と真田昌幸公!どちらも興味のある人です。