郷里の英雄:須坂藩第13代藩主・堀直虎侯の夢遥か

市議会議員 佐藤 壽三郎

私は、江宮孝之氏や浅田次郎氏等の講演を拝聴しても、直虎侯自刃の真相は残念なことに掴めませんでした。著名な歴史作家ほど、大局的に歴史を俯瞰して、そこから時代の流れを読み解くに長けている以上、余程のことがない限り、メジャーとも言えない信州は小藩の藩主である堀直虎侯について、歴史上人物に深入りすることは、木を見て森を見ずことに陥り易く、寧ろ意図的に回避されているのかもしれない。
然し、元和元年(1615年)信濃国須坂に立藩して、小藩なれども信州は高井郡の1万石を治めた堀家は、明治2年の廃藩置県がされるまで続いた須坂藩であります。

私は二十歳代を東京で暮らしましたが、「江戸っ子」とは三代江戸で生まれ育たないと「江戸っ子」とは言えないとのことでありました。すると「須坂っ子」も三代須坂で生れ育たないとすれば、私はまだ数えて須坂では二代目ですので、とても直虎侯を語る資格などありません。

然し、須坂藩の陣屋のあった跡地に建てられた須坂小学校を卒業したこと。陣屋に隣接する藩の菩提寺であった寿泉院境内で幼少の頃は毎日遊んだこと。上京するまでの2年間はやはり藩の菩提寺である臥竜山・興国寺に籠り受験勉強に勤しみ、雨の日も雪の日も子の刻になると、寺の一室から抜け出して百段の石段を登り観音堂に詣で、更に直虎侯の御霊廟に参内して侯をお慰めした若き日々を振り返るとき、十分に直虎の思いを語る資格があると自負しております。

閑話休題
徳川幕府が慶応3年10月24日「大政奉還」に応じました。家康公が朝廷から賜った征夷大将軍職を第15代慶喜将軍の手によって朝廷にお返ししたのです。「大政奉還」に至るまでの、政治的駆け引きを茲で論ずることは致しませんが、虚々実々の駆け引きがなされたことは想像つきます。
私が茲で言いたいことは、天下を統治していた徳川将軍家が「大政奉還」によって一介の大名になったということです。徳川幕府の瓦解を意味します。親藩、譜代、外様との序列の武家社会の頂点に君臨した将軍家の主従関係無くなり、幕府の締め付けや拘束性が失われたと解しますが、然し旧幕臣諸藩は旧態依然の関係を一応は保っていたことと思われます。

同3年12月5日、直虎候は前述のとおり、一介の大名になる前は徳川宗家の若年兼外国総奉行を拝命しましたが、最早全国の大名諸侯への統制権や命令権はなかったのではないかと思われます。私は「大政奉還」を、寧ろ「慶応3年の事変」或いは「慶応3年の役」と捉えるべきと考えます。大政奉還がなされた故に、信州・須坂1万石の小藩主が、元将軍家徳川様の私的な若年兼外国総奉行となれたと解すべきです。

同3年12月9日、王政復古の大号令が、岩倉具視の狡猾な手法で発布されました。これによって、慶喜元将軍が「大政奉還」を取消そうと、あれこれ奔走した政治工作も、封じ込めさせられてしまったのではないでしょうか。それでも旧幕府側は「大政奉還」を反故にして、征夷大将軍職を取り戻そうと目論んだ結果、慶応4年1月3日に鳥羽・伏見の戦いが勃発したと思料します。然し、戦を起こした張本人である慶喜公は「朝敵」の烙印を押されることを恥辱と感じ、本来ならば圧倒的な戦力を抱えていて幕府軍が勝利する力がありながら、戦を放棄してさっさと将兵を見捨てて同4年1月17日大阪から船で江戸に逃げ帰りました。

この一連の慶喜公の立ち振る舞いは、将に旧幕臣や徳川恩顧を大切に思い徳川宗家と運命を共にと決した旧諸大名を裏切る、身勝手で且つ背信行為に外なりません。これこそ武門の頭首の最も恥じる行為です。

そこで我が須坂藩主直虎侯が、意志薄弱な元征夷大将軍慶喜公に対し、堪忍袋の緒が切れて、諫言に及んだ気持ちは痛いほど分かります。苟も元将軍慶喜公に諫言を呈した以上は、そこは武士(もののふ)のけじめをつけられて、江戸城内で自刃されたものと私は推測いたします。さぞかし無念の極みであられたことと拝察いたします。

問われるのは「直虎侯がどんな諫言をされたのかではなく、直虎公が一命を賭してまで貫かねばならなかったものは一体何だったのか。」であります。でなければ直虎侯の意志に殉じて処罰されたと言う、家臣の中野五郎太夫、竹中清之丞は浮かばれませんし、汚名を負わされた彼らの子孫も含めて、人として一番大切な名誉の回復をしてあげねばなりません。この意味からも自刃の真相を解き明かすことは、須坂藩政庁の流れを現代に受け継ぐ須坂市の責務であると私は考えますが、市民の皆様は如何お考えでしょうか。


平成29年(2017年)12月31日