鎌田山地下壕について

市議会議員 佐藤 壽三郎
)鎌田山地下壕(ほらあな)について

 戦時中の貴重な資料が、この春市を退職された田子眞氏より提供を受けましたので、後日のために茲に記載させて頂きます。

 「松代大本営」計画の一覧表(「松代工事調書」青木孝寿「松代大本営 歴史の証言」外)に依りますと、地下壕は倉庫名としてイ、ロ、ハと表示され、御座所や賢所や海軍壕だけが名詞で表記されております。地下壕の場所は松代町、須坂市、上高井郡都住村、埴科郡清野村、上水内郡芋井村、埴科郡雨宮県村、埴科郡西条村、上水内郡安茂里村、中野市と北信一帯に及んでいたことが分かります。

 小・中学生の頃、鎌田山の洞穴で遊んでいた折に、二つある洞穴を「第2」「第3号」と我々は呼んでおりましたが、戦前の資料を見ると「鎌田山の地下壕」は「倉庫名」としては「ニ号倉庫」であり3本洞穴を掘削計画と表示されております。私は洞穴は2本しか見たことがありません。国は「ニ号倉庫」で地域を特定し、更に現地では3本の洞穴を掘られたものと推測いたしますが、前記のとおり、現存する洞穴は2本です。何故に洞穴を第2、第3と呼んで、第1と称する洞穴が無いのかは、小さいときからの疑問でありました。

 凡そ60年も前の記憶ですが、洞穴2号は坂田口から大谷口まで貫通していました。途中に十字の交差点があり、交差点から大谷口までは変化に富んだ洞穴であり、十分な照明器具の携行が必要でした。洞穴3号は側壁が緑かかったかび臭い洞穴でした。何故かしら側壁が綺麗に削られていて、入口の明かりが見えなくなって暫く進むと行き止まりになる洞穴でした。


2)鎌田山地下壕(ほらあな)を保存すべし

 私は平成28年9月議会一般質問で、鎌田山地下壕を取り上げました。
 即ち、「長野市の加藤市長は、8月24日の定例記者会見で、松代地区に残る松代大本営地下壕を保存してゆくとの意向を示されました。

 須坂市の鎌田山裏にも太平洋戦争末期、軍部が本土決戦の拠点として、極秘のうちに進められた地下壕ならぬ地上壕があります。屹度、松代大本営地下壕を取り巻く施設として掘り進められたものと想像します。

 地下壕は俗に言われる洞穴です。団塊の世代の我々にとって、この洞穴は男子の「探検の場」でした。三つ洞穴があったと言われますが、第1洞穴は地下壕であったかなと思います。私が少年時代に既に入口付近が殆んど塞がれていて、僅かに口を開けていた開口部分から中を覗くと、深い闇で当時の懐中電灯で照らしても、何も確認が出来ない、得体の知れない怖くて足が竦んだ記憶があります。

 第2洞穴は坂田口から大谷に通じており、「洞穴探検」として何回か通り抜けました。今でも洞穴内部の見取り図を描く事ができます。第3洞穴は、第2洞穴の東にあります。内部の側壁が極めて丁寧に掘られた洞穴でしたが、行き止まりであり、内部を探検すると第2と違って大変怖い思い出があります。

 第2洞穴は、その後、松代地震の折に京都大学地震研究所が使用することとなり、立ち入り禁止となり中に入ることが出来なくなったようですが、高校生になると鎌田山で毎日のように遊ばなくなり、様子は一切分かりません。鎌田山地下壕を子孫のために保存すべきと私は考えます。」と・・・

 須坂市は、長野市と違って乗り気ではありませんが、洞穴で探検をした団塊世代の皆さんは如何お考えでしょうか。

平成29年(2017年)4月30日