街に銭湯を取り戻そう


 大衆浴場は万人が入浴するところであるが、カランの前に座ると異空間に陥るのか、或いは鏡に自分しか映らない警戒心がそうさせるのか、こだわりがそうさせるのか兎に角奇行としか思えないことが見受けられる。

 カランの端に陣取った初老の男性は、もう遥かに20分も歯ブラシを動かしている。極めて神経質そうなこの御仁は一心不乱に歯を磨き続けているではないか・・・

 私は洗髪、髭そりそして石鹸を手拭いに伸ばし、揉んで揉んで泡立ちをしてから体を洗うことにしている。この手順は人生六十年変わり映えしない。であればこれも私のこだわりである。このコースを終えても猶、初老の男性はの歯ブラシは終わらない・・・

 隣りの老人は、液体シャンプーを手につけては体に抜きたくり掌で体を洗っている。柔軟な体なのか背中も同様に掌で擦っている。手拭いを忘れたのかと思いきや、手拭いは洗面器に漬してあるではないか。何のための手拭いなのかと観察すると、手で体中を洗いシャワーでシャボンを洗い流した後に、洗面器で手拭いをゴシゴシ洗濯し始めたではないか。手拭を千切れんばかりに洗い続ける異常さに、何事があったなかと心配となった・・・

 大衆浴場は楽しい。滑稽な仕草や会話が心を和ます。大きな浴槽に1人で入れる機会を得たときは極楽である。大きな釜に茹でられるうどんか蕎麦の如く、大きな浴槽のど真ん中で湯に浸ることは快適である。この空間と時間が日本人は大好きなのである。

 須坂市には民間の銭湯は一軒も無くなってしまって久しい。家庭に風呂を持つことが一つのステータスとされた時代に、各家庭はこぞって風呂を造った。利用客のいなくなった銭湯は一つ消え二つ消え、須坂から銭湯はとうとう消えてしまった・・・

 中心市街地の復興を考えるとき、銭湯は喪われたコミニケーションを再生・復興させる重要なキーワードになるとも思える。銭湯の有益性をもう一度見直そうではないか。
 

2011/12/7記す。