中学生3年間の担任であられた山崎厚先生を偲んで その1

回 り 道 を 厭 う な

市議会議員 佐藤 壽三郎


 令和2年2月19日夜半、恩師であられた山崎厚先生がご逝去された訃報が、ご遺族から寄せられました。享年99歳の天寿を全うされたと言え、恩師との永訣は口惜しい限りです。
 昨年10月に先生の「白寿の祝い」を企画しましたが、台風第19号が東信から北信地方を襲い、須坂市も甚大な被害が発生し、先生のお住まいである飯山市も同様に浸水が発生、祝いを催す会場も浸水被害を受けました。更に市議会議員として台風第19号の復旧に勤しまねばならない役務もあることから、洵に残念乍ら「白寿の祝い」は延期とせざるを得なくなりました。
 
 当初の「白寿の祝い」の呼びかけに、賛同するも当日は欠席の同級生から預けられた「先生に花束の足しに」と差し出された金員の処理もあり、私と同級会の会計である小池君は、暮れの27日飯山市に出向き、先生と飯山の「うなぎの本多」で昼食をとりながら歓談をすることが叶いました。まさかこれが先生との今生の別れの歓談になるとは些かも思わず、来年(令和2年)は「百歳満願成就」のお祝いをすることを約束して須坂に帰りました・・・

 思えば山崎厚先生との出会いは、昭和35年の春に我々が市立常盤中学校に入学した日でした。当時の常盤中学校は、須坂小学校の一部の学童と小山小学校の学童で構成する中学校でした。戦後の団塊の世代である我々は、1学年が8クラスもある大人数でしたが、私は7組に配属されました。

 この7組の担任されることになられた山崎厚先生は、常盤中学校に新たに赴任されて来られたことを、先生自らの自己紹介で知りました。更に数学と美術の先生であられることも分かりました。先生の自己紹介の後に、生徒が名簿順に起立して名乗りをあげました。決まり切ったワンパターンの自己紹介でしたが、これが3年間の中学校生活の事始めであったと記憶しております。

 茲で先生の人となりを記したいと思います。
 先生は、極めて温厚な方であられましたが、但し「筋を通すこと」を大変重んじられました。筋違いは絶対に許さない御仁でした。更に、男子(おのこ)として姑息なことは決して行ってはならないと、それはそれは厳しく戒められました。それ以外は、細かなことに余り頓着されない、大らかな御仁であられました。

 中学3年生の3学期の高校入試も迫ったある日、私は職員室に呼び出されました。先生はいきなり「母子家庭の長男としての心得」について語られ始め、「なぜ、長男としての心得が必要なのか。長男として生まれた以上、父親代わりに弟や妹の面倒を見ること。母親を楽させること。これを生涯に亘って心底に留め置いて生きなければ、どんなに寿三郎が将来偉くなっても、決して偉いとは言えないんだぞ。」と、真剣な顔で語りかけられました・・・

 父親を亡くし、7人の姉弟妹の母子家庭で育った私に、「親父さんが早くに亡くなられたことは不憫に思うが、これは寿三郎が生まれながらに背負う宿命というものだ。これはどうしようもないことなんだぞ。然し、この世に生を受けた以上、人には天賦というものもあるんだ。この天賦が何かは自分が探し出すものなんだが、これが俺の天賦と思ったら、どんなに回り道をしてでも諦めずに掴み取るんだ。宿命と天賦を自覚しながら、父親がいない分寿三郎は人より何倍も苦労するが、そこで長男としての心得が大切なんだな。分かるな・・・」と 懇々と諭して下さいましたが、当時15歳の私には先生が言われることは、正直言って殆ど理解できませんでした。
おぼろげながらに「父が居ない分、長男として弟や妹に不憫な思いをさせてはならない。お前が全日制に進学して、仮に弟を夜学に進学させることとなれば、お前は一生世間の笑い者になるんだ。分かるな。」と言うことかと悟りました。この諫言こそが、私の生涯に亘っての生き方を、大きく変える端緒となりました。

 あの日から57年・・・
 私も古希を越えるも、少年時代に諭された「母子家庭の長男としての心得」を肝に銘じて生きて来た心算です。ときには挫けそうになり、諦めかけたりもしましたが、「回り道を厭うな。宿命と思え」の先生の諫言を道標に日々を過ごしたことが、曲りなりに今あると感謝をしております。 誠に恩師の遠望された諫言は有り難いものと思います。 
 万感の感謝を込めて、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。  
合掌

令和2年(2020)2月29日