父の思い出 
  ぬ く も り   其の一                                 
泉小路 萬良
  

  




  昭和32年9月19日朝、皆で朝食を食べている最中に、突然悲劇が我が家を襲った、父が脳溢血となり僅かの時間を置いて亡くなってしまった。父の亡くなったあの日の一部始終は、46年も経たのに今でもその一コマ一コマを克明に覚えている。私が小学校4年の初秋のことであった。49歳で死期を迎える。朦朧として意識が遠のいてゆく中で、父の無念さを思うと涙が出てくる。

 「ボウォ〜ボウォ〜〜〜」と夜汽車の汽笛が、遠くこの須坂まで聞こえる昭和30年代の初めの頃の話である。

多分、信越線が豊野から牟礼に向かう急な坂を汽車が喘ぎながら登り、苦し紛れに汽笛を鳴らすのであろうか、夜半になると決まって須坂に聞こえてきた。今ほど生活の雑音が無い時代の汽笛は、恐らく善光寺平一円に聞こえたものであろう。千曲川の東岸にある須坂まで聞こえてきたものと思われる。

  汽笛が父を青春時代に立ち返らせたのか。ある夜はこんな話をしてくれた。

「若い頃、上京を決意したが、親父(私にとって祖父)は認めない。最後の手段で家出をして上京することとした。と言ってお袋に迷惑はかけられない。しかし今東京にでずんば、己の人生が萎んでしまう」ような焦りがあったらしい。父は、決心して自転車に唐傘を結わい付けて家を出た。

須坂を発ってどれほどで、碓氷峠の坂に差しかかったかは知らないが、「碓氷を下りはじめて熊野平駅付近の街道を行くと、須坂に居るはずの幼馴染二人が立っているではないか。角一の〇〇君と青木屋の邦夫君であった」と言う。どちらも須坂の有数の事業家の子弟である。幼馴染の二人は父に、「与えられた人生を、お互いに静かに受け入れて生きよう」と諭してくれたと言う。

あまりにも遠い昔の話であり、更に今となっては亡き父に確かめる術もないが、父は幼馴染に静かに諭されて上京することを断念する。三人で下りの列車に、チッキで自転車を汽車に乗せて帰って来たという。どうやらお袋(私にとって祖母)が邦夫君に泣きついたらしいが、父は何よりも、幼馴染が意気に感じて、碓氷の峠まで先回りしていてくれて、「須坂で暮らすのが一番」と言ってくれたことを、よほど嬉しく思ったに違いない。幼馴染との付き合いは、互いが死ぬまで続いたが、なかでも青木邦夫さんが一番長生きをされた。後に青木邦夫は製糸工場から白馬スキーに転じられ、実業家をまっとうされた。

部屋の電灯を消し、天井の明かり窓から月明かりが僅かに差し込む我が家では、父が機関士で語りべであった。乗客が母や私、弟や妹で銀河鉄道の旅に出た。銀河鉄道の汽笛はそのまま子守唄でもあった。

あるとき父は、義侠心のある男になれと私を諭した。父は海舟の父である小吉のように、市井の中にどっぶり浸かって生涯を終えた。経済的に困っている人には手を差しのべ、弱い人にはとことん味方した。父の周りには善人とお人好しの人々で一杯であった。私は父の面影を遺影にしか微かにしか思い出せないが、しかし、大柄であったこともあり、大きな手と、父が僕を連れて行ってくれた場所は、今でも不思議に覚えている。半日かかりで行った場所も今は車で造作もないが、思い出の質が違うし量が違うような気がする。

晩酌を嗜まない私であるが、今日も親父と語るために、父が晩酌をしている傍らで、親父の酒の肴を横取りしてしまった詫びの徴に、父が好物であった蛸を求めて、御燗を仏前に供えよう。

「親と子の”宿命”だけは永遠のものである」と、松本清張は「砂の器」で記しているが、将にその通りである。やがての彼岸での父との再会を信ずればこそ、父の教えを大切に胸に刻んで、今日を強く生きれるのである。

                                            蒸気機関車映像館「遠い汽笛」
                                                   http://www.kitekinet.com