男のやさしさ


 人間長く生きていると、不可解なことや不合理なことに、憤りを感じながらも、どうしようもないときがある。しかし、これを無理すると人生の蹉跌を招く。自分の努力では、どうしようもないときがあるが、これが宿命と悟らねばなるまい。それをくよくよしても始まらない。父も祖父もきっとこんな場面があったのだろうし、それを受け流す力量も男には必要なことである。

 人生の悲哀を嘗め尽くした男を若し挙げるとするならば、私は田中角栄元総理を挙げる。

 彼の自伝を読むほどに、切なくしかし強くわが胸に共鳴する。幾度の辛酸を嘗め尽くした分、田中角栄先生は厳しさの中に男の優しさが伺える。神経をすり減らした生涯であったと思うが、日本人は百年たっても田中角栄先生を忘れまい。それは日本人の心を掴んで離さない『情』というものであろう。しかし角栄先生の娘代議士は、角栄先生とは全く異質である。単に角栄先生の模倣に過ぎないし、発言の激しさは寧ろ「親父へのノスタルジア」と思える。彼女は偉大なる父を手本にし政治家を目指したが、女性でありながらして「男のやさしさ」を追求したところに無理があった。男に成りきれなかったことが即ち選択に蹉跌があったのではばかろうかと。然しこれも亦宿命であり、己が選んだ道である以上、何人も避難することはできない。【2003/10/29 (水)記】


 私の事務所には「敬人・三田中先生」と題した写真を掲げている。写真に向かって最敬礼するのが慣わしである。その写真には田中角栄総理大臣、そして郷里の偉人であり、私をまつべて下さった田中太郎県議会議員(後に須坂市長)、そして田中英一郎元県議会議長と、尊敬してやまない「三人の田中先生」方がにこやかに写っている。何れも故人であられるが、国民から{角さん}と慕われ、須坂市民から「太郎さん」「英一郎さん」と慕われた方々であるが、田中角栄先生がこの須坂市に訪ねて来られた折の、総理大臣を先導した県議会議員であられた三方の記念すべき写真である。

 私はこの時は何をしていたか。二十歳代の私は、在京の身であって、寝ても覚めても法律の本を舐めるように読む日々を過ごしていた。田中角栄総理大臣が郷里須坂に出向かれたことすら知らないでいた生活を送っていた。

 
2011/9/25記す。