少年時代の図書館との関りが人生を豊かにした


私は須坂小学校に昭和28年入学しました。団塊の世代として6学級、同期生は3百余名であったと推定されます。

小学校自体が江戸時代の須坂藩の陣屋の跡地そのものに建てられたことから、敷地は広く、そこに講堂、体操場、新校舎と呼ばれるも戦前に建てられた校舎、南校舎2棟、中央校舎、北校舎、記念校舎の外に裁縫室と呼ばれた棟や給食室棟、公仕室、宿直室、便所棟5ヶ所が、全て廊下で繋がっている規模の大きな小学校でした。

残念なことに明治時代に建築され別の場所から移築されたと言う記念校舎は、私が2年生の夏休みに焼失してしまいました。自分の教室が燃えてしまった衝撃は、幼な心に何か自分の入学以来の2年余りの思い出が、ある日不意に消去されてしまった何とも言えない遣り切れない思いは、歳月が経た今でも心底にあります。

記憶にのこる記念校舎は、階段や廊下は半間と幅狭く、校舎の廻りはガラス戸でしたが、教室と廊下の仕切りは障子戸でした。校舎の入り口は建物の中央に立派な玄関がありましたが、これは開かずの玄関で、教室への出入りは左右の廻り廊下と接続する2箇所からでした。現存していれば、明治時代の建物として、松本市の開智小学校と同等に評価されるでしょう。急度、須坂の名所となっていたことでしょう。

 閑話休題
図書館は新校舎と呼ばれる2階全てでした。小講堂と呼ばれる広い閲覧室と書庫室に分かれていて、図書館に行くと自由に、書棚から取り出して本が読めることを知ったのは、4年生が5年生のときでした。高学年になると図書館の清掃当番として毎日詰めることとなり、必然、書庫室に居られる司書の先生と顏馴染みとなりました。掃除をテキパキと済ませ司書の先生の机を囲んで、先生とおしゃべりをしたことが、今でも楽しかった記憶として微かに残っています。

放課後になると図書館に行っては、僕は偉人の伝記を読むことを日課としました。伝記本と言っても、低学年用の絵本と言った類の伝記本であり、文字も大きく、見開きには挿絵があり、ページをめくる度に挿絵が次々と変わるのが面白かったのかもしれません。今思えば司書の女子先生が優しかったことが一番の動機で、放課後は図書館に通うようになったものと思います。

この歳になっても、書を読むことが一向に苦にならないのは、あるいは少年時代に図書館の清掃当番をしたことが大きく影響しているかと感じます。このことが我が人生に大いに幸いしたと感じています。

(2021年)5月2日