靖国神社に対する一考察(寄稿)


 税理士 上地 正巳

 
 総理は「公人でも無く私人でも無い内閣総理大臣小泉純一郎として参拝した。」と云いましたが、これは詭弁であり、明らかに公人と云わざるを得ない。参拝の心情は私人で参拝の行為は公人とでも云うのかと思いますが、他人の理解の外にあります。国民に理解出来る様に云うべきです。


 一般の日本国民は満州事変以後の戦争が侵略戦争と認識していた人は殆んど無く、列国の恐威から守る自衛と信じていました。ところが、戦後色々の情報が表に現われ、必ずしも自衛とも云い難い事も判りました。また少なくても、昭和18年頃には、日本に全く勝目が無く停戦の呼び掛を拒否し、自己の面子のため、多大の被害を自国の国民はもとより、戦場となった国民にも云い知れぬ悲惨を昧合せた。若し、この時点で収拾すれば、特攻隊の犠牲無く、原爆の被害も受けなかったと思います。私人として戦争で散った戦士の心情を思えば、居ても立っても居れない気持ちは、日本人なら誰でも持っていると思います。だから、総理大臣が靖国神社に参拝したからどうなるものでもありません。政治家の本音を云わない、建前論に終始する発言には国民は共感を呼びません。


 日本人の大多数は国民全てが神社神道で氏子であると思っております。森前総理の神の国発言がそれを示しております。戦時中、毎月一日、全校生徒を神社に参拝させた学校がありました。戦後、天皇は人間宣言をし、新憲法は第20条で信教の自由、第89条で公の財産の支出又は利用の制限を定めました。法理論に解すれば、「内閣総理大臣」と記帳して参拝すれば、憲法違反と解するのが当然と思いますが、先述の如く大多数の国民は氏子と思い、神社参拝を生活慣習で、信仰行為では無いと認識し、憲法違反と云う人は異端視されます。例えは公的行事(着工式、竣工式、落成式等)はすべて神式で行なわれております。これに対し処々で、憲法違反の訴訟をしても、大方は生活慣習と判断されている様です。しかし、テレビに映された靖国神社の拝殿の幕には天皇家の門章が染抜かれている事から、天皇家の神社であると表明しております。かって、国民は天皇の臣でありました。よって、天皇の命に従い、身命を捧げる事は当然の義務としておりました。故に、戦死者は靖国神社に合祀される事を名誉と思ったのは当然でしょう.戦前にも靖国神社に合祀される事を拒否した遺族が居たとも聞いております。天皇が人間宣言をし、新憲法下も靖国神社に祀っている事に問題があるのではなかろうか。


 日本人の宗教観は一神教では無く多神教です。一神教の国民からは理解の出来ないところです。故に、それぞれの国民性の相異だから他国は口を狭む事は内政干渉と非難する事で済まされないと思います。日本の位取は、壱、拾、百、千、が基本で4桁毎に,を打っておりました。現在は英米流に3桁毎に,を打ちまオこ・白本は4確毎に万\層J兆、と呼称が上りますが、英米は3桁毎にTHOUSAND,MILLION,BILLION と3桁毎に呼称が上りますから,を打っのは当然です。何故、日本がそれに従わねばならないかと思います。これが世に云うグローバル化と云うのでしょう。宗教観も、世界の大多数の価値観に従えとは云いませんが、理解をする必要はあるかと思います。特に公人は構えて諸外国と物議を起す事は避けるべきです。


 戦争中、中学生であった小生は、戦争末期には毎日予科錬の志願を強要されました。飛行士に向かない近眼の者がうらやましく思いました。戦死した人々の中には自から進んで応じた人々も沢山ありますが、不本意で殉じた人々も無いとは云えません。いずれにしても、これ等の人々に畏敬の誠をつくす事は当然ですが、この様に国政を支配した人々が国民に対し償をしない事は大変不満に思います。この点を究明しないで犠牲者だげを供養するのでは、ナショナリズムの再興はあっても戦争の抑止にはならないと思います。


 毎年正月初に総理大臣は伊勢神宮に参拝しております。天皇陛下の臣である時は当然ですが新憲法下では違憲では無いかと思いますが、これについては諸外国からは批判がないのですから、靖国神社が問題であると思います.国内的にも種々問題がある上、戦場となった国々の心情にも思いを至さねはならないと思います。